遠視のメガネは心で合わせる
近視の場合「遠くが見えない」と困りごとが具体的です。
近視と反対の関係にある「遠視」は「近くが見えない」という具体的な困りごとが無い場合があります。
老眼=遠視ではありません。
老眼は誰しも必ずおこる年齢による変化であって、遠視は目の「個性」です。
いわゆる「正視」、「近視」、「遠視」、「老眼」の見える範囲を図にしてみました。
世界の果てにピントがピッタリ合っているのが「正視」
ある一定の近い距離から見えるのが「近視」
そして「遠視」を飛ばして「老視(分かりやすく正視の人が老視になった場合)」は遠くは世界の果てにピントが合っているのですが、年齢によりピント合わせの量が減ってしまって近くの見える距離が遠ざかっていく事です。
さて、「遠視」はどうせしょうか?
世界の果てより先にピントがあります。
見えないはずの世界が見えるとでもいうのでしょうか?
そうではなく、「世界の果て」を見るためにもなんと「ピント合わせ」をしなければならない目なのです。つまり、極端に言えば何を見るにも眼はリラックスしないと言うことです。
その分だけ近くを見るための力の総量が減ってしまい、結果より一層大変なわけです。
若いときはピントあわせが十分な量があるので、近くもましてや遠くもハッキリみえて自分の目が「遠視」なんて気が付いていない人が多いです。
人間個性の塊です。身長、足の大きさ、その他諸々・・・全部違います。
目だけがピッタリ「正視」なんて事の方が珍しい事だっておもいませんか?
つまり、半数が近視ならば、残りの半数は「遠視」だって思ってもおかしくは無いのです。
でも「見えるから自覚がない」だけなのです。
目の良し悪しを「視力」の良し悪しで判断することがありますが上の図で考えれば目に負担が掛かっていそうな「遠視」であっても視力がムチャクチャいいのは理解できるのではないでしょうか?
コレが「疲れ」や「頭痛」を引き起こしていたりする事が結構あるのです。良く見えるのに・・・
メガネやコンタクトレンズはその「遠視」を矯正します。
つまり余計なピントあわせを取り除く役割をするわけです。
こんな感じで・・・
これで、ピント合わせの総量が増えて余計な目の疲労を減らすと言うわけです。
しかし、メガネを掛けても「視力が良くなるわけではありません」
視力は「変わらない」のです。
しかも掛けはじめは「しなくて良いピント合わせをする癖が残っていて」遠くがボケて見える事があります。
つまり、メガネを掛けて疲れ感が減るという大きなメリットを感じる前に、「遠くがボケる」という分かりやすいデメリットを感じてメガネに意味が無いような気がしてしまうのです。
しかし、「遠視のメガネ」は良く見えるようにするためのメガネではありません。
目からくる健康被害を軽減するための「薬」に近い性格を強く持ちます。
適切に合わされた「遠視のメガネ」はピント合わせの緊張を抜き、結果遠くは今までと同様なハッキリさを得られるようになります。
つまり、遠視は自分の力で遠くを最も良く見える状態にする事が出来る目なので、メガネを掛けたからといってそれ以上の視力、つまり2.0が3.0になるなんて事は無いのです。
でも、年齢によってピント合わせの量が減ると遠くのピントあわせもしにくくなるので、この場合は遠視のメガネをかけたほうが視力があがります。
「遠視のメガネは心で合わせる」というのは、メガネによって具体的な変化を「見える、見えない」では判断できない、だから「自分の目の個性を理解すること」つまり「遠視」を理解すること。
そして、「メガネが何をしていて、どうして必要なのか?」を理解することが大事なのです。
そして漢方薬が徐々に効いてくるように、掛けつづけることによって目から来ていた症状に効いてくるというわけです。
そして遠視は「屈折異常」と言われる状態であり、メガネを掛けた状態が目にとって
は「正常」です。
だからメガネを外すと「見えにくい、疲れる」と感じるのは当たり前であって、けしてメガネによって「目が悪くなった」わけでは無いのです。
それはメガネを掛けていれば遠視が矯正されて楽になっている証拠でもあるし、遠視によって起きていた事との落差を感じるからです。
ちなみに「メガネをかけたら老眼が進む」と言うのはウソです。
老視は年齢と共に起きる「水晶体」の硬化によりピントあわせがしにくくなることです。
だから、メガネを掛けようが掛けまいが進みます。
それよりも、なるべく疲労無く、快適に、しかも仕事や趣味、生活のパフォーマンスを落とさない方が「心」も「体」も健康なはずです。
一人ひとりで違う目の個性をご自身が「知っていただく」事、これがメガネを合わせる事なんだと僕は思います。
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